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熊野大花火の日===17日(1)

 天候よしで、順当に予定通りに終了できたようです。以前は海岸沿いにも住居がありましたので、小学校に入る前から、長年観てきましたが、そちらを手放して、山間部の住居のみになりましたので、混雑の激しい中を、出掛ける気にはならないし、kimiも充分観てきたからといいますから、微かに、音が響いてくるのを聞くのみです。多分、もう一度観に行くことはしないでしょう。大昔といいますか、60年も昔では、時たまにしか打ち上げが行われないので、発射音の「ポッ」という音を聞き逃さないで空を見上げないと見逃してしまったものでした。10分以上間隔が開くのは普通でした。連発なるものが、時々混じる程度でした。よくいえば、一発、一発を味わって、観賞したものでした。今のように、飽きさせないように、派手な打ち上げには、徐々になってきたから、ある年を期してそうなったのではないように思います。昔は、木本町の追善供養花火であり、観光花火ではありませんでした。今でも、木本町の初盆の方々の灯篭焼きがあり、追善の面も残しては居ます。花火の費用負担でも、町内の有力者の家が初盆の時は、今年の花火は立派だろうと期待したものでしたが、現代は、企業からの寄付が大きなウエイトを占めているのだろうと思います。かっての木本町内の有力者の家系や、商店は壊滅状態に近くなりましたし、それに代わる、新興勢力も育ちませんでした。ジャスコ等の大型店など、熊野からすれば、外資になる企業が経済を握っています。故に、町内の追善供養から観光花火へと性格を変えてゆかざるのは、世の流れからすれば必然の事かと思います。私自身は、そう考え、感じた時点で、ずぅと続けてきた、堤防への桟敷の設置を止めました。観光になれば、町内の人間が優先的に過去の権利を主張するより、観光客に場所を優先して提供するのが筋合いになってきたと思いましたからです。
 昔は、海岸沿いに住居のある有力者は、堤防に桟敷をしつらえて、観覧したものでした。我が家の左隣の桟敷には、妹と同級生の彫りの深い美少女が居たので、楽しみだったのが記憶にあります。妹は、日本人形風の顔立ちで、かたや、西洋人形風で、その昔は、その前を通る時は、町の学生達は胸をときめかせたものだと言ってました。遥か遥か昔の事で、もう、妹はあの世の住人になりました。
 愛用していた、アナログプレーヤーも、処分いたしました。想い出が、又一つ消えましたが、愛用してくださる人の元で、使命を果たすのが、機械であっても本望かと思います。
 
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by nyasu559 | 2010-08-17 23:00 | ねこ | Comments(0)