2012年 11月 10日
半世紀が過ぎました。
長いような、短いような時間でした。
性格的には、動対静、論理派対情緒派と言う具合に反対の二人です。
そして、長男対長女ですから、大将同士の闘いなので、延々とその日々が続いています。
けれど、基本的な人生観や価値観はほとんど同じなので、決定的な決裂には至ることなく、倦怠期を感じないで済んだ利点もあったと思っています。
Kimiには迷惑至極だったようにも思いますが、不思議な事には出て行かないで居てくれています。
但し、子連れで家出の実績はありますが、迎えに行かずとも帰って来ました。
多分、死が別つまで一緒に暮らせるのではないかと思っています。
今後、残された年月はいかほどかは分かりませんが、二人とも病気しないので、
そして、検査では全く異常なしに近い状態なので、今しばらくは、お付き合い願う事になりそうなので、迷惑をおかけしないようには気を付けるつもりですが、いかんともし難い事もあるかと思います。
何卒、宜しくお願いいたします。
2012年11月10日
中田安彦・紀美子
夜は、豪華な食事ステーキにしました。久しぶりです。多分本年度初だと思います。タイの尾頭付よりこちらを選びました。そして、興味深々のポールと物見高い花恋とアイちゃんが見守る中で、本日到着の子供達からのプレゼントのマッサージ・チェアの試用をいたしました。機能が豊富なので、ボタンが沢山あり、二人で高齢者には、説明書では無理だな、説明員が要るなと話しながら使いました。効果のほどは、使いこなせて居ないので不明ですが、強力な能力はありそうです。当たる位置を調節しないと人間が揉むようには、機械が位置調節してくれないので、自分のポイントと適応させる術を学習しなければなりません。
追想
思い起こせば沢山のことがありました。
まずはなれ初めの出会いです。
4年の秋早慶戦の神宮球場でした。その年は、伝説に近い早稲田の安藤の六連投で劣勢との前評判を覆して優勝したシーズンでした。
何戦目かは忘れましたが、終盤戦で夕日が射していました。濡れ羽色の黒髪ではないので、夕日を浴びて茶色いような毛の綺麗な女性が立っていました。多分。7回の応援歌の起立の時だったように思います。紹介されたのではないので、言葉を交わすでもなく、噂の高いKimiを見に行こうと誘われて見に行きました。だから、Kimiは知らないことです。
◎驚いたことに、英語の期末試験対策に、女子部員の友達を介してお声がかかったことです。英文科でもない運動部の私を指名するのは???でした。けれど、安気な私はホイと引き受けて部室の外の道路でまっていたKimiに会いました。下級生が、「オンナの方がお見えになっています」と伝えてくれました。4年生の貫録とばかりに、バンカラ派の私はトレパン(トレーニングパンツ)にランニングシャツで行きました。後で聞くとKimi当然変な人と思たそうですが、気にしないし、Kimiとしては問題にしていない相手なので、断られる事無く打ち合わせが出来ました。それから、テキスト教材の翻訳の為のデートが続きました。更に驚いたことは、丹念に単語を辞書で調べてありました。だから、「こりゃあ、逢う口実かもしれない」などと思ったりしましたが、それほど良い男ではないので、それは無しでした。
◎正月に帰った時見合い話が有りましたので、予定を早めて帰京しました。あまり、自信がない事なので、丁度その年の一月は13日が金曜日でした。駄目な時は、日にちを選ぶのがいけなかったのを口実に出来るとその日にプロポーズをしました。結果は「考えて置くわ」でした。「論外です」「遠すぎて無理」とかの返事ではなかったので、脈有り。努力・工夫次第と解釈して小躍りしながら帰りました。変人なのか、「結婚して下さい」とお願いしたら一生頭が上がらないと思いましたから、「貴女と結婚したくなったから、考えて下さい」と文字通り提案いたしました。だから、「あの時頭をさげてお願いしたくせになによ」というセリフは聞かなくても良いのですが、相手は旧日本帝国軍顔負けの打ちてし止まん降伏と言う文字が辞書にない者ですから勝利はおぼつかないじょうたいが続いています。
◎部の同級生とKimiを口説き落とせるかと賭けをして、一人を除いて無理という事だったので、結婚祝いは高価なグラスセットになりました。デフレの今と違い、インフレでしたから、後から結婚した連中から、Yasuの時と同じ金額では割りが合わないとよく言われました。
◎Kimiが母親同伴で、初めて熊野へ来て、汽車からホームへ降り立った時、私の、祖母のハトが豆鉄砲と言葉がピッタリの表情で居たのを覚えています。私達の娘ユッコちゃんもそっくりな表情をしたものでした。そして、アッと言う間に、親族一同を素晴らしい嫁が来ると言わしめて、現在に続いています。
多くの場合、私との対比のせいでしょうが、あんなのがお前と結婚するとはと言われたものです。熊野の七不思議の一つともいわれましたが、ある面うなづけないこともないので。気になる事は無いし、「お前らでは解らんだろうが、Kimiはそうではない」と思っています。人様の事だから、いろんな理由を考えて下さっているかと思います。
◎初めての正式と言うか、遠出のデートは長瀞になりました。Kimiは和服で、ここでも、私は運動部では正式の行事は制服ですから、制服で行きました。漫画ですが、誠意の表れであると考えて実行しました。そして、着物用の草履では滑りそうな斜面を下りる時手を差し出すと、ちょっと躊躇しましたが、手を握って下りました。それが初めてでした。
◎初キッスの後は、不思議な事に舌の前の部分がトロンとした感覚が残り一週間くらい続きました。徐々に消えて行くのが残念でした。その時だけで、後からの経験では、その様な事は起こりませんでした。今でも、不思議に思っています。
◎所謂、結納の使者は、祖父の末弟と甥(一番信任の厚い方で、故周恩来首相とも酒を飲み、俺も強いと思っていたが、奴らは桁が違うといってました)の二人りが行きました。儀式が終わるや、「まあ、一杯」となりましたそうです。Kimiの父親も酒が好きだったし、どうぞと言われたら、酔い潰れなければ良しで、初めて訪問した家でも遠慮などどこ吹く風の家風ですから、飲んだ、飲んだで酒は買って来れば良しですが、肴に困ったそうです。母親が、あんなに、気持ちよく飲んでくれて嬉しかったとKimiに言ったそうです。
◎結婚式は昔風に自宅で行いました。披露宴は町内の旅館で長時間飲んでいました。私達は、初日は勝浦温泉の当時は一番の名門越の湯旅館に宿泊しました。刺身がツバキの花のような形で見事に盛り付けてありましたが、私は、祖母の見事な包丁捌きでサクッと切り出したのが一番おいしいと思いますので(今でも、魚をさばかせれば超一流の腕であったと固く信じています)こんなにこねくり回してはマズクなってしまうのにと思ったことを覚えています。
◎新婚旅行は、九州一周でした。それも、大阪の親戚も立ち寄りましたので、半月の旅行でした。当然荷物が多くなるので、私だけが大型のトランクで移動が大変でした。台風の関係で、島原への船が出るか出ないか見通しがなかなか立たないので、そこで立ち往生はかなわないので、何処かの街へ移動して宿泊して、天草四郎の遺跡等は見ることが出来ませんでした。霧島岳周辺の景色は雰囲気が良かったと思いました。住んでいる熊野は、風景には恵まれているので、多くの場合なんだと思ってしまいます。城ケ島は当地の鬼が城の方が。耶馬渓は自分の所有する山林内にもあるな。長瀞は瀞八丁の方が上だなと思ってしまいます。熊野古道はそれほどでもないと思います。ただ、多くの新婚さんのなかで、Kimiはだれにも負けないなと感じながらの新婚旅行でした。
出かける時に、祖父がKimiに財布の中の有金全部を渡していました。Kimiはいまでも「おじいちゃんは、財布に入っていたお金を全部出してくれて、『オレはこれだけしか持っていないから、ババの貰って行け』といった」という事を思い出として話します。
我が家の伝統は、主婦が財布を握り、主人はそんなことは任せる主義です。Kimiは、旅行から帰ると間もなく、あっさりと祖母さんから大蔵大臣の椅子を譲り渡され少々面喰っていましたが、動じないのか深く考えないのか、深刻な様子はありませんでした。
◎私が、多分12歳の頃から居た猫「クロ」は嫌いな人が来ると機嫌が悪く、後ろで唸るから、Kimiが来るからよろしくと言っていましたら、いきなり気に入ってくれたのですが、新婚さんの布団に潜りこんで、暖かい二人の間にどっかりと寝ていました。そして、長男のMasaとは一緒に枕を並べて寝ていました。Masaは、サビーナ親子を雨の中全員を保護して帰って来ました。ミミが調子を崩した後は、サプリや療法食送って来ました。そんな、生まれつきです。
◎なにしろ。半世紀ですからまだまだありますが、とりあえずはここまでにして、後日にします。
by nyasu559
| 2012-11-10 22:12
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